ギタリストmiyaviとは?身長や使っているギターを紹介!嫁も子どももいるの?

サムライギタリストと呼ばれるmiyaviとは?

約30か国300公演以上のライブを行い、6度のワールドツアーを成功させている世界的なアーティスト!

本名:石原貴雅〈いしはら たかまさ〉

・1981年9月14日生まれ

・AB型。

・2009年に独立し、個人事務所・J-glam Inc,の代表取締役を務める。

・日本国外におけるマネジメント契約はウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメントと結んでいる。

miyaviの音楽スタイル

・ピックを使わないスラップ奏法で演奏している。この奏法は一般的にベースの人がしている。

・この奏法でプレイすることにしたのには「世界進出」が目標にあったから。

・日本古来の楽器である三味線からインスピレーションを受け、パーカッションやベースの奏法を交え生み出したものだ。

 

miyaviの生い立ち

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・1981年、大阪府大阪市で韓国籍から帰化した父(李)と日本人の母の両親のもとに生まれる。(ちなみにmiyaviは大人になって始めて日韓ハーフである事を聞かされたそう。両親は離婚し、父の事は大嫌いだった。自身が子供の父親になった事で、当時のお父様の気持ちが少しわかるようになって、今はそれを受け入れられているそうです。

・小学校2年の時にサッカーを始め、プロサッカーチームであるJリーグ・セレッソ大阪のユースチームに所属する。小学校ではクラスの中心人物で、人気者だったそうです。

当時のことをmiyaviはこのように語っています。

7歳からサッカーをやっていました。朝起きて学校行く前からずっと、昼休みや放課後も暗くなるまでボールを蹴ってましたね。

両親は自由にさせてくれましたし、俗に言う反抗期みたいなものは正直あまりなかったです。

勉強にしても、新しいことを学ぶのが好きな子どもだったと思います。あとは、普通の男の子と一緒で、女の子に興味がありましたね。

プロチームのグラウンドなのでライトがあるから夜遅くまで練習できるんですよね。

なので、終わると今度は満員電車に揺られて帰って、また次の日の朝、学校に行く、その繰り返しで。そうなると、やっぱり休み時間は疲れているから寝るじゃないですか。

それまでは学校でチームの輪の中心に自分がいたのに、友達が離れていってしまいました。正直、辛かったですね。

・大阪府の代表選手にも選ばれ、プロのサッカー選手を目標にしていたが15歳の時に足を負傷した。

・それをきっかけにチームを離脱し、サッカーを辞める。

プロになることを踏まえての決断だったんですけど、だんだんサッカーボールを蹴ることが楽しくなくなってきちゃったんです。

足を怪我をして休んでいる間に監督が変わって全部が変わってしまって、その流れに自分がついていけなくなった。

精神的にもドロップアウトしました。それまでボールを蹴ることしかしてなかったので、サッカーを辞めた時に、凄く大きな穴が自分の心に空いたのを覚えてます。

・「バンドをやってみようか」と考えて音楽と出会いギターを始める。

仲間たちとたまたま「バンドやろうぜ」っていう流れになって、そこで初めてギターを手にしました。

今でも鮮明に覚えていますけど、ギターを手にして、つたない手でドレミファソラシドと弾いた時に、子供ながらに、自分が本当にでかいスタジアムで、たくさんの人の前で演奏している絵が見えたんですよね。

「これだ!」って思ったんです。それからは毎日ひたすらギターを弾いて、漠然と、「ギターが自分を変えてくれるんじゃないか、ギターが自分をどこかに連れて行ってくれるんじゃないか」というような、

ワクワクする気持ちと根拠のない自信を感じていました。

・学校に行かずギターを弾く生活をはじめ、高校を自主退学している。

・17歳のとき恩人の先輩の死にショックを受けPHSとタバコを持ち、そのまま上京する。

ギターを始めたのは15歳の頃でしたが、17の時に自分に音楽のいろはを教えてくれた先輩が亡くなったんです。

眉毛はないしモヒカンで、近寄りづらい雰囲気のハードコアな人でしたが、僕にとってはいろんな音楽を聴かせてくれたお兄ちゃん的な存在でした。

それまで身近な人が死ぬという経験がなかったので、同じ景色や場所が全く違って見えたことが衝撃的で。そこにいたくなくて、東京に行きました。

・東京に唯一いた知り合いが、元彼女。親の転勤の都合で別れる事になった彼女に連絡をし、会う約束をした。しかし現れた大好きな元カノは、東京に染まりきってガングロギャルになり彼氏もいたため、頼ることをあきらめライブハウスに潜り込むことになりました。

・ライブハウスでヴィジュアル系ロックバンド・Dué le quartzのメンバーと出会い、そのまま一泊し、一晩で作曲を終えたことがきっかけとなり加入することとなった。

もうその日に思い立って、夜行バスに乗って、東京駅に朝の8時くらいに着いたのかな。そこから野宿生活をしたこともありましたね。

当時からこういうナリをしていたので、ライブハウスには結構入れてもらえて、そこで色んな仲間ができて、以前所属していたバンド「Dué le Quartz」に加入することになりました。

最初は入るつもりはなかったんですけど、3~5歳上のメンバー達が凄く温かくて。自分も慕っていた先輩を亡くした直後だったから一緒にいて安心できたんだと思います。

・ギタリスト、コンポーザーを経て、2002年10月31日にアルバム『雅楽-gagaku』より、「雅-miyavi-」名義でソロ活動を開始。

miyaviがメジャーデビューしてからこれまでの活動

・2004年10月20日、シングル「ロックの逆襲 -スーパースターの条件-/21世紀型行進曲」でユニバーサルミュージックよりメジャーデビュー。

・2006年、単身ロサンゼルスに3カ月間留学。

理由は、語学の勉強。自分の人生計画によると、「20歳までに英語が喋れるようになって世界中をい飛び回っている予定」だったのに当時25歳。「時間が押してる!」と感じて活動休止し、L.Aに飛ぶmiyavi。現地では朝の7時から起きて、必死で英語の勉強漬けの日々を送る。おすすめの習得方法は、「現地の女の子と付き合うこと」だそうです。

・セッションバンド・KAVKI BOIZを新たに結成、ラップ、タップ、和太鼓やボディペイントなど様々なジャンルのパフォーマーと共演。

・X JAPANのYOSHIKIから「このバンドを自身の人生にとって最後のバンドにしたい」と誘われてYOSHIKIが立ち上げた新ユニット・S.K.I.N.にもギターとして加入した。

・2010年、所属レーベルをEMIミュージック・ジャパンに移籍することを発表。またアーティスト表記を「雅-MIYAVI-」にすることも発表した。

・2010年、サポートドラマー・BOBO(54-71)と組み、ギター&ドラムで活動を始める。

・2011年10月、トータル・プロデューサーに亀田誠治を迎え、様々なアーティストたちとセッションするプロジェクト「SAMURAI SESSIONS」を始動。

・2012年11月14日、アーティストと“対戦”するコラボレーション・アルバム『SAMURAI SESSIONS vol.1』をリリース。

・2013年6月19日、アーティスト表記を「MIYAVI」に統一した

・2014年、家族でL.Aに移住する。理由は①音楽活動の為②子供たちに英語をネイティヴで喋れる環境を与えてあげたいから。

嫁のmelody.は元々ハワイ育ちなので英語が話せますが、miyaviは勉強して習得したからこそ、子供たちには言葉の壁が無い状態で育って欲しかったそう

この時期、「言葉の壁」が原因で、サッカーでの挫折以来2度目のスランプに陥っていた。しかし、家族の支えにより壁を乗り越えた。

・2014年12月25日公開のアンジェリーナ・ジョリー監督映画『不屈の男 アンブロークン』で、俳優としてハリウッドデビュー

・12月31日、第65回NHK紅白歌合戦に出場したSMAPのメドレー3曲目「Top Of The World」にギター演奏で参加。

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